同意することと、理解することは違う。

それは正しい。そして誤りだ。【元暁】

これは、理解できるという意味では正しく、同意できないという意味では誤りだという意味だ。

理解とは相手の立場を考慮することだが、同意は相手の言い分をまるごと支持することだ。

誰かがある主張をした時、その主張に同意はできなくても、その人がその主張をするに至った背景や理由を理解することは十分可能だ。

もちろん主張を理解すると同時に同意することもできる。

元暁はこのように理解と同意を区別し、仏教の世界で衝突するさまざまな理論を仲裁するために尽力した。

全ての理論を理解しようと努めつつ、選別して同意する形をとったのだ。

また、理論を正しいか誤っているかで二分するのではなく、各理論の正しい点は受け入れ、誤った部分は批判した。

これが元暁の和諍思想だ。

和諍思想は現代でも会話する際に応用できる。

同意できないことは理解もしようとしない人は多い。

しかし二分法的な態度よりも、同意と理解を区別する方が望ましい。

同意するかは別にして、なるべく相手の立場を理解しようとする姿勢は必要なのではないだろうか。

たとえ人の意見に同意しなくても、その人がどのような人生を送りその意見に至ったのかを考えれば、相応の理由があることが理解しやすくなる。

そうすれば意見が違うからといって、その人を憎んだり衝突したりといったことも避けられる。

そして、より平和な状態を目指すことが可能になる。

知らないのに知っているふりをすることこそ、最も非難されるべき無知ではなかろうか。【ソクラテス】

会話していて何か問題が起きる時、その原因の多くは無知にある。

他人に対する無知、人間関係に対する無知、感情への無知、時と場合による無知、言葉への無知、会話のテーマに対する無知……。

さらに知らないのによく知っているという思い込みがまだ加わると、問題はいっそう深刻になる。

知らないことがたくさんあることを受け入れている人は、大きな顔をせずに謙虚になる。

問題は中途半端な知識しかないのに全てを理解していると慢心している人だ。

問題を起こして人を傷つけるのは、たいていそんな人たちだ。

では、完璧な知識を身につけない限り、何も言ってはいけないのか。

そうではない。

大切なのは、この宇宙の全てを知ることはできないことを受け入れる謙虚さと、勉強と努力をし続ける姿勢だ。

自分の無知を知れば、言葉遣いも自然と謙虚になる。

命令よりもお願いが、批判よりも助言が、主張よりも傾聴が、より謙虚な行動だ。

ソクラテスは「自分の無知を知る」謙虚さと知性の豊かな会話によって、人々に自分の無知を気づかせたのだ。


これも耳が痛い話だな。

他人の上に立ちたい人は多い。

そういう人は自分の学力や知ってることを見せびらかして優越感に浸ろうとするんだけど、ソクラテスはそういう姿勢を痛烈に批判してるわけだ。

昔、やたら決めつけるような言い方をする人がいた。

それに対して思い切って疑問点を質問してみたら、「あなたにはまだ早いから基礎から学びましょう」っていう回答が来た。

SNS上でのやり取りだったんだけど、文章だけで明らかに不機嫌になってることがわかった。

申し訳ないんだけど、「ああ、この人も知らないんだな」って思った。

この件から、あんまり大きなことは言わない方がよさそうだと感じた。

わからないことを質問された時は、「わかりません、ごめんなさい」の態度が大事だと思う。

謙虚になるのは、結構大変。

自分が下だってことを認めるようなものだから。

ちょっと話は変わるんだけど、他人がどれだけ優れてるかはわからない。

他人がどんな人生を送り、どんなことを学んできたかはわからないし、

学校の勉強では自分の方が優れていても、別の分野では他人の方が遥かに優れてるかも知れない。

人をこけにしていると、いつか痛い目に遭いそう。

世の中の仕組みにも理解できないことはいっぱいあるけど、それなりの理由があるんだろうな。

他人に対しても世の中に対しても、謙虚な姿勢を忘れないようにしたい。

君たちは最近、質問が少ないが、どういうわけだ? 人は学ばないでいると、自分はすでに学ぶ方法を知っていると思い込みやすい。すると知らず知らずのうちに、ただ自分が知っている範囲内で考えればいいと思ってしまうのだ。【王陽明】

王陽明が弟子たちを叱った理由は質問をしなかったためだ。

質問とは、現状に対する不満からくる渇望の表れだ。

だから質問がないということは、現状に満足しているということを意味する。

そんな時、人は自分が知っていることが全てであり、それが全部正しいと思い込む。

そして、その範囲内だけで思考し、行動しようとする。

しかし、疑問を抱いてこそ問題になり、問題になってこそ変化し、社会が発展するのだ。

常に疑問を持ち、質問を投げかけるべきだ。

自分の知識や自分が置かれた状況に対して、自分の周囲の全ての事柄に対して。

そうしない限り、今日も明日も何も変わらない。

問題意識を持つことが、変化の第一歩である。

当たり前と思われていたことに多くの質問を投げかけてきたおかげで、世界は少しずつ発展してきた。


よく「わからないことは恥ずかしがらずに質問しよう」って聞くよね。

僕もそれを信じて結構質問してたんだけど、最近は少し控えている。

質問していると最初は一目置かれるんだけど、しすぎるとうっとうしがられるんだよな。

こっちは先生の言う通りにしたのに避けられることになった。

まあこういうのも経験なのかな。

人によって言ってること違うし。

それに、「質問しろ」って言ったその人に、質問してうっとうしがられたことがあった。

人間は感情の生き物だし、自分で言ったことへの責任を捨てたい気持ちは少しだけわかる。

何事も適度が大事ってことなんだろうな。

質問することも、自分で考えることも。

疑問を持ったり問題を投げかけるのが大事っていうのはその通りだと思う。

古代ギリシャの哲学者タレスって人が「万物の根源は水である」って言ったらしくて、今だからそれは違うとわかるけど、当時にとっては画期的な発言だったんだろうな。

この発言があったから、いろんな人がこのことに対して考え始めたから。

何でもいいから何かやることが大事っていう教えでもあって、それを大切にしたいな。

学校で勉強する数学について。

僕は数学で解けない問題に出くわした時、すぐに答えを見てしまうタイプだ。

もちろんあんまりいいことではなくて、5分くらいは考えることが大事だと言われている。

確かに同じ図形の問題でも、長さや角度の求める場所によっては正弦定理や余弦定理を使い分ける必要がある。

両方使う場合は、順番も重要だ。

この考えるということをしている時に、その人の数学力は大きく上がっていると言われている。

考えるには時間がかかる。

学校生活は数学だけでなく、他の教科も勉強するし、部活動もあるし、人間関係もある。

家庭事情に悩まされている人は多いし、人によっては働いてすらいる。

数学は2次関数や三角比、微積やベクトルなど、たくさんのことを勉強する。

理系に進むなら物理や化学の勉強も相当しないといけない。

そのことを考えたら、中1〜高3までの6年間という期間はあまりにも短いと思う。

僕の感覚では一日中勉強してやっと偏差値60くらいだった。

偏差値50は低学歴ってされてるみたいだけど、全然そんなことはないし、十分レベルが高いっていう世の中になったらいいのにな。

言い方が大事。

どのように話すかは、話の内容と同じくらい重要である。【チェスターフィールド

人が意見に反対する時は、大体その伝え方が気に食わない時である。【ニーチェ

言い方が大事っていうよね。

学校にも「この人言ってることは正しいけど言い方が嫌だ」って思う人いたな。

世の中にもいっぱいいる。

「偉そうなこと言ってるけどあなたがなに知ってんの」「それ、本当に正しいって言い切れるの」ってなるよね。

でもこれって僕自身にも言えることだなって思う。

ここは僕のブログで僕の書きたいように書いてるけど、実際に人と会話する時は気をつけているし、これからもそうしていきたい。

歴史を勉強する意味。

ミシェルフーコーの言葉。

『歴史を学ぶ目的は、過去を理解することにあるのではない。

現在を見つめる観点を変え、現実を変えるためだと。

歴史を勉強すると、今の時代には当たり前だと思われていることが、過去には当たり前ではなかったことがわかる。

また、過去を知ることで未来を予測し、進むべき方向を定めることができる。

これが歴史の勉強をする根本的な理由だ。』

歴史を勉強する理由がまるでわからなかった僕にとってはありがたい言葉だ。

高校生の時、日本史が全くわからなかった、世界史も。

小学生の時は、割と好きな方だった。

あの時は、偉人の生没年とか、その人が何を建てたとか、そういうことを暗記してるだけでよかった。

それだけで高得点取れたから。

勉強において、暗記ほど楽なものはない。

覚えるだけだから。

それに対し、考えることはとても難しい。

高校時代の歴史では、この考えることが必要だったと思う。

また、歴史も勉強してみようかな。

意味を知らずに使ってる言葉、意外にありそう。

たとえば爆笑という言葉、「大勢が」大声でどっと笑うこと。

つまり1人で大笑いしても爆笑にはならないんだと。

僕は文字通り爆発的に笑うことだと思ってたし、人数が関係してるなんて知らなかった。

あと、姑息という言葉は、一時的な間に合わせ、その場しのぎって意味らしい。

僕はこの言葉を、漫画とかで「姑息な真似を」みたいなセリフをいっぱい見てきたから、卑怯と同じ意味だと思っていた。

でも大分違うことがわかった。

僕は言葉を知ってもその意味をいちいち調べない。

でも一回しっかり調べてみるのもいいかもな。