合わないと思ったらすぐやめればいい、について。

時々「1回やってみて合わないと思ったらすぐやめればいい」ということを聞く。

しかし、ありがたい気持ちもあるんだけど、正直これはいいアドバイスとは言えないと思う。

人生では1回始めたらすぐにはやめられないことがほとんどだ。

たとえば習い事、仕事、結婚。

入会、退会などの手続きは面倒だし、やめるという時の精神的負担がある。

何かとお金も関係してくる。

ある店の店長が、「ここで働くなら1年は続けてほしい。2ヶ月くらいでやめられたらたまらない」と言っていて、まあそうだろうなって思った。

教える手間もあるし、契約とか色々大変なんだろうなって思う。

基本的に何事も、すぐにはやめられない。

学校も、1回入学したらどんな理不尽な校則があろうと、退学しようなんてほとんどの人が思えないし、転校も簡単じゃない。

だから、何かを決める時はしっかり調べて、自問自答を繰り返して決めるのが大事だと思う。

すぐやめるくらいなら、最初からやらないほうが遥かにマシだ。

完璧主義について。

人生の敵、これだけは絶対に直した方がいいものの1つに、完璧主義があると思う。

たとえばテストの点数、100点じゃなかったら99点も0点も同じという人がいる。

僕は全くそうは思わない。

99点でも60点でも、立派に誇れる点数だし、

たとえ0点だったとしても、僕にしてみれば学校に行きテストを受けただけですごいことだ。

完璧主義で1番恐ろしいのは、わざわざ苦手分野で頑張ろうとしてしまう点にあると思う。

人間誰だって得意不得意があって、得意なことで活動すればいいのに、完璧主義の人は「苦手を克服しなきゃ」と思ってしなくてもいいことを頑張ろうとしてしまう。

それで結局無気力になって力尽きてしまう。

これは、できないことができた時の快感に原因があると思う。

僕は小学生の時、空手に行っていた。

まず、僕に空手は全く向いていなかった。

先生にはやたら怒られたし、時々殴られた。

それだけに、褒められた時はとても嬉しかった。

ほとんどの人は小学校卒業とともにやめるんだけど、続けてほしいというから僕はやめなかった。

そしたら先生は喜んでくれて、僕は嬉しかった。

でも、それは大きな間違いだった。

楽しくもない空手を続けるのは苦痛だったし、その最中、先生からも普通に怒られ続けた。

結局もう行かなくなった。

完璧主義からズレてるかも知れないけど、苦手なこともしっかり続けなきゃならないと考えたのは誤りだった。

苦手なことはさっさとやめて、得意なことを伸ばした方がいいと学んだ。

君子危うきに近寄らずと虎穴に入らずんば虎子を得ずについて。

君子は危ないことはしない、リスクを負わないと相応の成果を得られないという結構反対な意味の言葉。

僕はどちらかというと、君子危うきに近寄らずに近い考えの人間だと思う。

虎穴に入らないといけない時は、基本的に切羽詰まってる時だ。

慌てているとうまくいかない。

もちろん人生では慌てなきゃいけない時もあって、単純作業については慌ててもいいけど、思考が必要な作業においては冷静さが必要だ。

取り乱してる時に重要なことをすると、また取り乱さなきゃならないことが起きやすくなる。

それにリスクにもいろんなリスクがあって、信用できるものとできないものがある。

金欠だから大金を得たいと思ってネットビジネスを始めて、ある人に弟子入りしたらその人が詐欺師でお金を持っていかれるなんていう話はごまんとある。

もちろん中には本物の成功者もいるだろうけど、そういう人に当たるかは完全に運だ。

一か八かに人生を預けたくないという人が大半だし、少しでも不安に思うことをする時は、十分すぎるほど下調べをする必要があると思う。

でも虎穴に入らないといけない人もいるからどっちが正しいとかはあんまり言えない。

僕も今若干そんな状況だ。

今後危ないことをせずに済むように、勉強もお金を手に入れることも、堅実にやっていきたいな。

鶏口となるも牛後となるなかれ。

強い勢力のあるものにつき従うより、たとえ小さくても独立したものの頭となれという意味の言葉。

これには大いに同意だな。

学校の部活動とか特にそうだけど、強豪校に行ってレギュラーにもなれず雑用をやらされるくらいなら、たとえ弱小校でもキャプテンになる方がよっぽど人生充実するよなって思う。

意味若干違うかも知れないけど。

まあ、運動にしろ文化にしろ、本当にその活動が好きなら、やっぱり強豪校に行くのかな。

僕はそんなに1つのことに熱中したことも好きになったこともないからわからない。

それに、人数は少ない方が揉め事も少ないはずだ。

内部で大きい勢力と対立したり、言いなりになるくらいなら、やりたいことをしてやりがいを感じる方が自分に向いてる気がするな。

これからもそうして生きていきたい。

自分が成長しすぎると、周りと合わなくなる。

これをやったら相手が嫌がるだろうとか、他人の気持ちを考えて、余計な行動を控えるようにしていると、その余計な行動を他人からされると不快になりやすくなる。

たとえば、一生懸命練習を頑張っている人がいて、今話しかけたら申し訳ないからと話しかけないでいるのに、自分が練習を頑張っている最中にズカズカ話しかけられると強烈な不快感を感じやすくなる。

「今話しかけない方がいいって普通考えたらわかるよね?」ってなりやすい。

これは自分と相手の、「普通」の基準が違うから起きることだ。

つまり、自分がレベルが高い人間になるほど、他人の行動にイライラしやすくなる。

イライラしていると生きづらい。

自分の苦手な人とうまくいかなくなるだけなら全然いいけど、不快感が伝染して元々仲良い人とまでうまくいかなくなったら目も当てられない。

向上心を持って成長するのはとてもいいこと。

でもその時は、周りの人と合わなくなり衝突が起きる恐れがあることをあらかじめ予想し、自分と他人は違う人間だと意識しておくと、心のダメージは少なくて済むと思う。

真実の矢を射るときは、その先端を蜜に浸せ。【アラビアのことわざ】

自分が正しいとは限らないのに、正義面をして相手にキツい言葉を浴びせる人がいる。

そういう人は相手を不快にさせ、トラブルを起こす。

仮に自分が正しかったとしても、言い方には十分気をつけなければならない。

人には誰だって自尊心がある。

恥をかきたくない。

もし、言わなければならないことがある時は、相手の心を気づかい、蜜を浸してから言うべきである。

という意味の言葉。


これは僕もそう思う。

言いたいことは何でも言っていいわけじゃない。

言い方がすごく重要だ。

人は感情の生き物だから、たとえ相手の言ってることが正しくても言い方が嫌だったら従いたくない。

相手と仲良くなりたかったら、言い方に気をつけるくらいの気遣いは必要だと思う。

汝の本来の顔は何か?【慧能】

修養の目的は善人になることではない。

まず自分自身のことを理解することにある。

自分自身を深く理解すれば、自分を愛せるようになる。

慧能大師は、「不思善不思悪」、悪はもちろん善についても考えるな、既存の慣習や規範にとらわれるな、と言った。

学校や社会から刷り込まれた規定や慣習を疑って初めて、本当の自分に会える。

「善良な私」「礼儀正しい私」「男らしさ」「女らしさ」を捨てることで、本当の自分が見えてくる。

自分が本当に好きなものは何なのか。

自分の本当の夢は何なのか。

それを知らなければならない。

という意味の言葉。


すごいいいこと言ってるし、僕もそうしたいんだけど、世の中のルールがそれを許してくれるのかな。

これって要は自分の欲望を剥き出しにしろってことだと思うんだけど、そんなことしたら大変なことになるじゃん。

昔「みんながやったらやばいことはするな」って言ってる人がいて、その考え方だと世の中は平和になるなって納得した。

本当の自分が許される世の中になればそうしようかな。